キングダムファンなら誰もが気になる信の結婚相手。羌瘣?河了貂?それとも陽?しかし史実を調べてみると、李信の嫁について驚くべき真実が浮かび上がる。なんと、これほど重要な人物でありながら、妻に関する記録が一切存在しないのだ。
その一方で、李信の血筋は後に中国史上最も偉大な皇帝を生み出し、飛将軍と呼ばれる名将や、詩聖李白まで輩出したとされる壮大な系譜を築いている。なぜ李信の嫁だけが歴史から消されたのか?その子孫たちはなぜこれほど優秀だったのか?史料を徹底検証し、1000年にわたる謎に迫る。
史実の李信とは何者か

キングダムの主人公として日本中で愛される信のモデルとなった李信は、史実において紀元前3世紀の激動の中国を駆け抜けた実在の将軍である。司馬遷の『史記』に記録された李信の姿は、漫画の英雄的な描写とは異なる側面を見せる一方で、後世に皇帝を生み出す血筋の礎となった興味深い人物でもある。
秦の天下統一を支えた若き将軍
李信は、中国の戦国時代末期の秦の将軍。字は有成。槐里(現在の陝西省咸陽市興平市)の人。前漢の将軍李広の先祖にあたるとされている。司馬遷『史記』白起王翦列伝および刺客列伝において、その事績が記されているものの、意外にもその詳細は多くの謎に包まれている。
史実の李信が歴史の舞台に登場するのは、秦が紀元前230年に韓を滅ぼした後(韓攻略)、趙攻めを命じられた王翦が数十万の兵を率いて漳・鄴に布陣した時、李信は太原・雲中に出征していたとされる時期である。この記述から分かるのは、李信が紀元前230年頃には既に重要な軍事任務を任される地位にあったということだ。
史記によれば、李信は”若いながらも果敢な将軍”として秦の東方遠征に抜擢され、楚や燕、斉などの戦いで実際に軍を率いている。特に燕攻略では重要な役割を果たし、秦の将軍・李信はこれを激しく追撃し、燕の太子丹を追い詰めた功績は高く評価された。
キングダムの信との決定的な違い
キングダムの信は下僕出身の少年として描かれているが、史実の李信の出自は全く異なる。李信の祖父の李崇は、字を伯祐といい、秦の隴西郡守・南鄭公となった。李信の父の李瑤は、字を内徳といい、秦の南郡郡守・狄道侯となった。李信は字を有成といい、秦の大将軍・隴西侯となったという記録が残されている。
これらの記録によれば、李信は老子を祖先に持つ名門の出身で、祖父も父も高位の官職に就いた家系であった。下僕出身の少年の成り上がりの物語になったのは、『キングダム』の設定上の創作なのである。
また、史実での李信の評価も複雑である。確かに若き将軍として抜擢され、多くの戦役で活躍したが、楚攻略での大敗は彼の軍事的評価に大きな影を落とした。史実では「期待されたが限界もあった将軍」として中庸なものでしたと評価される一方で、対楚戦の失敗後も粛清されず、子孫が残っていることから、秦王政より李信は信用を得ていたと考えられる点は注目に値する。
司馬遷が記した李信の人物像
『史記』における李信の描写は簡潔ながらも印象的である。「(おそらく紀元前226年時点で)年が若く、勇壮であった」、「(燕の太子丹を捕らえた功績により)秦王政から智勇が備わっていると評価されていた」と記されている。
興味深いことに、司馬遷は李信について両面的な評価を下している。楚攻略では、李信が「20万で十分」と豪語したのに対し、王翦が「60万が必要」と答えた場面で、政は、王翦が耄碌したものと捉え、李信の案を採用して侵攻を命じた。しかし結果は大敗に終わり、三日三晩追跡して来た項燕が指揮を執る楚軍に奇襲され、2カ所の塁壁を破られ7人の武将を失う大敗を喫したのである。
しかし重要なのは、この失敗後も李信が秦王政の信頼を失わなかったことだ。同書では、「秦の天下統一は王氏と蒙氏の功績が特に大きく、その名は後世にまで伝えられている」と記されている一方で、李信については触れられていないとはいえ、その後の燕・斉攻略にも参加し、中華統一という”歴史的偉業”を実現した最後の戦いに名を刻みましたという事実は、李信の真の価値を物語っている。
史実の李信は、漫画のような完璧な英雄ではなく、時に失敗し、それでも信頼され続けた人間的な魅力を持つ将軍だったのかもしれない。そして何より、彼の血筋が後に中国史上最も重要な皇帝たちを生み出すことになるという、数世紀後の壮大な物語への序章でもあったのである。
李信の嫁について史実で判明している真相

史実における李信の妻については、驚くほど情報が少ないのが現実である。これは、中国古代の史書編纂において、女性、特に将軍の妻に関する記録が軽視されがちだったという社会背景も影響している。しかし、李信に子孫が存在することは確実であり、そこから推測できる結婚の事実と、その妻の正体について、現在判明している真相を整理してみよう。
史記に記録されていない妻の存在
司馬遷の『史記』において、李信に関する記述は「白起王翦列伝」「刺客列伝」「李将軍列伝(李広の記述中)」に散発的に登場するものの、彼の私生活、特に妻や家族についての言及は皆無に等しい。これは『史記』という歴史書の性格上、軍事的功績や政治的な出来事を中心に記録しているためであるが、同時に李信の妻の身分や出自について手がかりを失わせる要因となっている。
興味深いことに、『史記』では李信の子孫である李広についても、その軍事的功績は詳細に記されているものの、李信から李広に至る4代の系譜については明確な記録がない。「李將軍廣者,隴西成紀人也。其先曰李信,秦時為將,逐得燕太子丹者也」という記述で、李広が李信の子孫であることは確認できるが、その間の血統についての詳細は謎に包まれている。
この記録の欠如は、李信の妻についても同様である。戦国時代末期の激動期において、将軍の私的な記録が後世に残りにくかったことは理解できるが、それでも李信ほどの重要人物の妻について一切の記録がないのは異例と言える。
高貴な身分の女性との結婚説
李信の妻の身分について、いくつかの推測が可能である。まず考えられるのは、李信が始皇帝から厚い信頼を得ていたという史実から、政治的配慮による高貴な身分の女性との結婚である。
秦の統一戦争期において、有力な将軍に対する報償として、また忠誠心を確保するための手段として、王族や高官の娘との結婚が斡旋されることは珍しくなかった。李信が「(燕の太子丹を捕らえた功績により)秦王政から智勇が備わっていると評価されていた」という記録を考慮すれば、始皇帝からの斡旋による政治的婚姻の可能性は十分にある。
また、『新唐書』宗室世系表によれば、李信は「秦の大将軍・隴西侯」となったとされている。この記録の信憑性には疑問があるものの、仮に李信が侯の地位を得ていたとすれば、それに相応しい身分の女性との結婚が求められたであろう。
さらに、李信の出自についても考慮する必要がある。同じ『新唐書』によれば、李信の祖父は「秦の隴西郡守・南鄭公」、父は「秦の南郡郡守・狄道侯」という高位の官職についていたとされる。この記録が事実であれば、李信自身も名門の出身であり、同格の家柄との婚姻が一般的であったと推測される。
子孫の存在から推測できる結婚の事実
李信の結婚について最も確実な証拠は、彼の子孫の存在である。『史記』李将軍列伝に明記されているように、李広は李信の子孫であり、これは疑いのない史実とされている。李広から逆算すれば、李信には確実に子どもがいたことになり、したがって妻も存在したことは間違いない。
興味深いのは、李信の子孫たちが代々軍事的才能を発揮していることである。李広は「飛将軍」として名を馳せ、その孫の李陵も匈奴との戦いで歴史に名を刻んだ。このような軍事的才能の継承を考えると、李信の妻も武勇に優れた家系の出身であった可能性がある。
『新唐書』宗室世系表によれば、李信の子は李超(またの名を伉)といい、「漢の大将軍・漁陽太守」となったとされている。しかし、この記録は『史記』には見当たらず、『漢書』にも前漢の建国功臣として記載されていないため、信憑性に疑問がある。それでも、李信の直系の子が存在したこと自体は、複数の子孫の存在から確実視できる。
また、李信の妻の出産時期についても推測が可能である。李信が活躍した時期(紀元前230年頃〜前221年)と、その子孫である李広の活躍時期(紀元前2世紀)を考慮すると、李信は比較的早い時期に結婚し、子どもを得たと考えられる。これは、戦国時代の将軍としては一般的なパターンであり、特に政治的な意味を持つ結婚であった可能性を示唆している。
子孫の活躍ぶりを見ると、李信の血筋には確実に優秀な遺伝子が受け継がれており、その配偶者も相応の家柄と能力を持った女性であったと推測される。ただし、その具体的な名前や出身については、現在でも完全な謎のままである。
キングダムで描かれる嫁候補たちの検証

キングダムにおいて、主人公である信の結婚相手として3人の有力候補が挙げられている。羌瘣(きょうかい)、河了貂(かりょうてん)、そして陽(よう)。しかし、これらの候補者と史実の李信との関係を検証すると、非常に興味深い事実が浮かび上がる。史実とフィクションの境界線を明確にしながら、それぞれの候補者について詳しく見ていこう。
羌瘣との結婚は史実に基づくのか
羌瘣は、キングダムで信の最有力な結婚候補として描かれており、実際にコミックス70巻では信からプロポーズを受けている。信を救うために禁術を使って自らの命を半分削るなど、深い愛情を示すエピソードが数多く描かれている。
しかし、史実における羌瘣の実像は、キングダムの美しい女剣士とは大きく異なる。『史記』秦始皇本紀によれば、羌瘣は紀元前229年(始皇18年)に王翦・楊端和と共に趙を攻めた実在の将軍である。史料には確かに「羌瘣」の名前が記され、「将」という文字も確認できるため、歴史上に実在した人物であることは間違いない。
問題は性別である。史実の記録には羌瘣が女性であったという記述は一切ない。女性の将軍は珍しいため、もしそうであれば史書にそのように明記されるはずだが、そのような記録は存在しない。むしろ、戦国時代という過酷な時代の中で史実にも名を残す様な将軍であれば、男性である可能性が極めて高いとされる。
興味深いことに、史実では羌瘣は紀元前228年の趙攻略以降、記録から姿を消している。これは、羌瘣が趙滅亡後に死亡したか、あるいは他の任務に就いて記録が残らなくなった可能性を示唆している。キングダムでは、この史実の空白期間を利用して、羌瘣が信と結婚して戦場から離れるという設定にする可能性が高いと予想されている。
河了貂が史実の妻という説の真偽
河了貂は、キングダム開始当初から信と行動を共にしてきた最古参のキャラクターである。飛信隊の軍師として信を支え、「信の夢が叶ってほしい。おれもあいつと一緒に幸せになりたい」という発言から、結婚候補として名前が挙がることがある。
しかし、河了貂については史実において該当する人物が全く見当たらない。「河了貂が史実でも李信の妻ということになってるそうですが、本当なのでしょうか」という疑問に対して調査が行われたが、河了貂が李信の妻だという噂は確認が取れず、信憑性に欠けるとされている。
実際のところ、河了貂はキングダムのオリジナル創作キャラクターである可能性が高い。史書には彼女に該当する人物の記録は見つからず、飛信隊のもう一人の副将・渕さんやその他大勢と同じく、架空の人物と考えられている。
河了貂の魅力は、その知的で献身的な性格にある。「時々ドジ踏むけど家事もできて頭もいい河了貂に一票」「何事にも一生懸命で感情も豊かな彼女がいれば信も救われるのでは」など、読者からは「良妻賢母」のイメージを持たれている。しかし、史実との関連性がない以上、河了貂との結婚は完全にフィクションの範疇に留まることになる。
陽が最有力候補とされる理由
陽は秦の宮女として登場し、登場回数は他の候補者と比べて少ないものの、史実との関連で最も興味深い存在である。彼女が有力候補とされる理由は、その身分と政治的な背景にある。
陽と信の出会いは、コミックス40巻で描かれた「ロウアイの乱」である。敵に追いかけられた政の子ども・麗と母親の向を救うために陽が敵の前に立ちふさがり、そこに信が救出に現れるという劇的なシーンで二人は出会った。信に救われた陽は彼に対してときめきを見せ、読者からも「家柄が良いと思われる陽は良い所の嫁が欲しいという李信の当初の夢にぴったりなのでは」という声が上がっている。
陽が最有力候補とされる最大の理由は、史実における李信の妻の推定される身分と合致することである。前章で述べたように、史実の李信は始皇帝から厚い信頼を得ており、政治的配慮による高貴な身分の女性との結婚が行われた可能性が高い。宮女という身分の陽は、まさにそのような政治的婚姻の対象として相応しい立場にある。
また、陽との結婚は「夫婦ともども親友同士になる」という読者の指摘もある。これは、政と信の友情関係を考慮すれば、政の側近である宮女との結婚が政治的にも個人的にも理にかなっているからである。始皇帝の斡旋による結婚という史実の可能性を考慮すれば、陽は最も現実的な候補者と言えるかもしれない。
しかし、陽についても史実における確実な記録は存在しない。キングダムにおける陽の設定が、史実の李信の妻の身分を推測して創作されたものである可能性が高い。それでも、史実の政治的背景を考慮すれば、陽のような宮女身分の女性が李信の妻であった可能性は決して低くないのである。
このように、キングダムで描かれる3人の結婚候補は、それぞれ異なる魅力と史実との関連性を持っている。羌瘣は史実の人物だが性別が異なり、河了貂は完全な創作キャラクター、陽は史実の推定と合致する身分設定を持つ。原泰久先生がどの選択をするかは、史実へのこだわりとストーリーテリングのバランスによって決まることになるだろう。
李信の子孫が築いた驚異の系譜

李信の血筋が後世に与えた影響は、想像を絶するほど壮大である。秦の将軍として活躍した李信の子孫は、その後1000年以上にわたって中国史の表舞台で活躍し続け、ついには皇帝の座にまで上り詰めることになる。ただし、これらの系譜記録の多くは後世に編纂されたものであり、その信憑性については慎重な検証が必要である。
息子・李超が漢の大将軍となった謎
『新唐書』宗室世系表によれば、李信の子は李超(またの名を伉)といい、字を仁高といい、「漢の大将軍・漁陽太守」となったとされている。この記録が事実であれば、李信の息子が秦を滅ぼした漢の高位に就いたという驚くべき話になる。
しかし、この記録には大きな疑問がある。李信は秦に仕えていたが、李超が漢の大将軍とされているのは、政治的に考えて極めて不自然である。漢といえば秦を滅ぼすことになった劉邦が作った王朝であり、秦の将軍の息子がその敵国の大将軍になるというのは、通常では考えられない。
さらに問題なのは、『史記』には李超の記述が一切ないことである。班固が著した『漢書』においても前漢の建国の功臣として記載されていない。漢の大将軍という重要な地位にあった人物の記録が、同時代の史書に全く残っていないのは極めて異例である。
王翦の孫である王賁の子供・王離のように、多くの秦の名将の子孫は楚漢戦争期に記録が残っているが、李信については一切の記述がない。蒙恬一族は宦官・趙高によって一族皆殺しにあって子孫が途絶えているため、李信の子孫の記録がないことも、同様の運命をたどった可能性を示唆している。『新唐書』そのものの資料価値の低さを考慮すれば、李超が漢の大将軍になったという記録の信憑性は極めて疑わしいと言わざるを得ない。
5代目の李広が飛将軍と呼ばれた理由
李信の子孫について確実に言えるのは、李広が李信の子孫であることだけである。『史記』李将軍列伝の冒頭に「李將軍廣者,隴西成紀人也。其先曰李信,秦時為將,逐得燕太子丹者也」とあり、李広が始皇帝時代の李信の子孫であることが明記されている。
李広は李信から数えて5代目の子孫、つまり玄孫(ひ孫の子)にあたるとされ、「飛将軍」と呼ばれた猛将として知られている。李広は匈奴、いわゆる遊牧民族との戦いに生涯を費やし、その勇猛ぶりから敵からも恐れられる存在となった。
李広の「飛将軍」という称号は、その俊敏な戦術と圧倒的な弓術の技能に由来している。李広は岩に矢を突き立てることができるほどの弓の名人だったといわれており、李氏一族は代々弓の名人だったとされる。この伝統を考えれば、李信も弓の名人だった可能性が高い。
興味深いことに、三国志で最強とも名高い呂布も「飛将」と呼ばれていたが、それはこの李広の「飛将軍」になぞらえたものである。呂布と李信に血縁関係はないが、「飛将」という称号の価値を考えれば、李広がいかに優れた武将であったかが分かる。キングダムで信の部隊が「飛信隊」と呼ばれているのも、この李広将軍の「飛将軍」という名からとったものと考えられる。
唐の皇帝李世民までつながる血筋の真実
李信の子孫の系譜で最も壮大かつ疑わしいのが、唐王朝との関係である。『新唐書』宗室世系表によれば、李広以下の子孫の記録は、五胡十六国時代の西涼の李暠へと続き、唐の高祖李淵にいたるとされている。
李淵は中国における歴代王国の中でも、もっとも栄華を極めたとされる唐を建国した人物である。そして、李淵の次男が、貞観の治で知られる名君・李世民(唐の太宗)である。貞観の治は、中国5000年の歴史の中で、もっとも国が平和に治められていた時代といわれており、李世民は中国史上最高の名君と評される。
もしこの系譜が真実であれば、李信の血筋は中国史上最も偉大な皇帝を生み出したことになり、まさに「大将軍どころでは終わらなかった大物」ということになる。遣唐使などを通して日本にも大きな影響を与えた唐の皇族が李信の子孫だったとすれば、その歴史的意義は計り知れない。
しかし、この系譜には重大な問題がある。李淵は武昭王・李暠の子孫を自称していたが、経歴を捏造したとの噂もある。実際のところ、唐の李氏は鮮卑系の異民族で、もともとは李氏ではないという説が有力である。これは中華の漢民族を統治する際に、漢民族出身であることのほうが有利であるとされ、意図的に改ざんされたものとされる見方が強い。
李白についても同様で、李暠の9世の子孫と記されているが、「李白が李信の子孫ではない可能性もある」とされ、最近の日本の研究者のあいだでは、李白はそもそも漢民族ではないという説もある。
これらの系譜の多くは、李信たちの時代よりも1000年以上も後に書かれた『新唐書』に基づいている。そのため、信憑性がないと指摘する専門家も多い。唐王朝が箔をつけるために、李信を先祖として選んだ可能性が高いのである。
それでも、李信から李広への血筋は『史記』に明記されており、確実な史実である。李広の軍事的才能を考えれば、その5代前の李信にも優れた遺伝子が流れていたことは間違いない。仮に唐王朝との関係が創作であったとしても、李信の血筋が中国史に与えた影響は決して小さくないのである。
李信の嫁と子孫に関するよくある質問

李信の妻や子孫について、多くの人が抱く疑問がある。キングダムファンから歴史愛好家まで、幅広い層から寄せられる質問の中から、特に多い3つの疑問について、史実に基づいて回答してみよう。これらの疑問への答えは、李信という人物の歴史的位置づけを理解する上でも重要である。
李信の妻の名前は分かっているのですか?
結論から言えば、李信の妻の名前は史実では一切分かっていません。
『史記』をはじめとする同時代の史料には、李信の妻に関する記録が全く残されていない。これは李信の妻が政治的に重要でなかったか、もしくは古代中国の史書編纂において女性の記録が軽視されていたことが原因である。
『新唐書』宗室世系表には李信の家系について詳細な記述があるが、そこでも妻の名前は記されていない。この史料は李信の時代から1000年以上後に編纂されたものであり、しかも唐王朝の正統性を高めるための粉飾が含まれている可能性が高いため、仮に妻の名前が記されていたとしても信憑性は疑わしい。
興味深いことに、李信ほどの重要人物でありながら妻の記録がないのは異例である。同時代の他の将軍、例えば王翦や蒙恬についても妻の記録は乏しいが、李信の場合は子孫が確実に存在することから、結婚していたことは間違いない。
古代中国において女性の名前が史書に記録されるのは、皇后や皇妃として政治的影響力を持った場合に限られることが多い。李信の妻は、おそらく一般的な将軍の妻として静かに生涯を送ったため、歴史に名前を残すことがなかったと推測される。
李白は本当に李信の子孫なのですか?
李白が李信の子孫であるという説は、史実としては極めて疑わしいとされています。
『新唐書』宗室世系表以外の記録では、李白が西涼の李暠の9世の子孫と記されており、李暠が李信の子孫とされることから、系譜上は李白も李信の子孫ということになる。しかし、この系譜には重大な問題がある。
まず、李白の出自自体が謎に包まれている。最近の日本の研究者の間では、「李白はそもそも漢民族ではない」という説が有力になっている。李白の生まれた場所や家系について確実な史料は少なく、彼が本当に中国系の血筋なのかどうかも定かではない。
さらに、李暠から唐王朝の李氏につながる系譜についても信憑性が疑問視されている。唐の李氏は鮮卑系の異民族で、もともとは李氏ではなかったという説が有力である。これは、中華の漢民族を統治する際に、漢民族出身であることの方が有利であるため、意図的に改ざんされたものとされる。
李白自身も、自らの出自について明確に語った記録は少ない。当時の詩人や文人の間では、名門の血筋を自称することは珍しくなく、李白の場合も政治的・社会的な理由から李信の子孫を名乗った可能性がある。
従って、李白が李信の子孫であるという説は、「真相ははっきりしていませんが、李白が李信の子孫ではない可能性もある」というのが現在の史学界の見解である。
キングダムの結婚相手は史実通りになりますか?
キングダムの李信の結婚相手は、史実通りになることはありません。なぜなら、史実に李信の妻の記録が存在しないからです。
前述の通り、史実における李信の妻については一切の記録がない。つまり、キングダムで描かれる結婚相手(羌瘣、河了貂、陽のいずれであっても)は、原泰久先生の創作ということになる。
ただし、史実との整合性を考慮した場合、3人の候補者にはそれぞれ異なる位置づけがある。
- 羌瘣:史実に存在する人物だが、おそらく男性。キングダムでは女性として描かれているため、結婚すれば完全な創作となる。
- 河了貂:史実に該当する人物が見当たらない完全な創作キャラクター。彼女との結婚は史実との関連性がない。
- 陽:史実に確実な記録はないが、宮女という身分設定は史実の李信の妻の推定される地位と合致する。政治的婚姻という観点では最も現実的。
原泰久先生は過去のインタビューで、信の相手は「貂か羌瘣か一人にすでに絞っており、ハーレムにはしない」というコメントをしており、その後の情熱大陸では「羌瘣とのロマンスの構想がある」ことを示唆している。
史実では羌瘣は趙攻略後に記録から姿を消すため、このタイミングで信と結婚して戦場から離れるという設定にする可能性が高いと予想されている。これは史実の空白期間を利用した巧妙な創作手法と言える。
結論として、キングダムの結婚相手は史実通りにはならないが、史実の空白を埋める形で創作される可能性が高い。原泰久先生がどの選択をするかは、史実への敬意とストーリーテリングの巧妙なバランスによって決まることになるだろう。
いずれにせよ、史実に李信の妻の記録がない以上、どの選択をしても「史実通り」ということにはならない。むしろ、史実の謎を創作で補完するという、歴史フィクションの醍醐味を味わえることになる。李信の子孫が確実に存在することを考えれば、彼が結婚して子どもを得たことは間違いないため、キングダムでの結婚描写は史実の可能性の範囲内と言えるのである。
史実における李信の嫁まとめ

李信の嫁について史実を詳しく調査した結果、確実に言えることは「完全な謎である」ということだった。しかし、この謎こそが李信という人物の歴史的な魅力を物語っている。
史実で判明していることは李信に子孫が存在することだけであり、妻の名前、出身、結婚時期など一切が不明である。『史記』という同時代史料には妻の記録が皆無で、1000年後の『新唐書』の記述も信憑性に疑問がある。これは古代中国の史書編纂において女性の記録が軽視されていたことと、李信の妻が政治的に重要でなかったことが主な原因である。
キングダムの嫁候補たちについて検証すると、羌瘣は史実の人物だが性別が異なり、河了貂は完全な創作キャラクター、陽は史実の推定と合致する身分設定を持つという結果となった。どの選択をしても「史実通り」にはならないが、それぞれに異なる魅力と可能性がある。
李信の子孫の系譜については、李広までは確実だが、それ以降の唐王朝や李白との関係は粉飾の可能性が高い。それでも、李広という「飛将軍」を生み出した血筋の価値は計り知れない。
この謎だらけの状況は、決してマイナスではない。むしろ、現代の私たちに想像の余地を与え、キングダムのような優れた歴史フィクションが生まれる土壌となっている。李信の嫁が謎だからこそ、読者は自由に想像し、作者は創作の翼を広げることができるのである。
数ヶ月後、キングダムがどのような結末を迎えるにせよ、李信の嫁に関する真実は永遠に歴史の闇の中にある。そして、その謎こそが、2000年以上の時を超えて私たちの知的好奇心を刺激し続ける李信という人物の最大の魅力なのかもしれない。